明るすぎる世界から、阿寒の「闇」へ
僕たちは今、あまりにも明るすぎる世界に生きている。
コンビニのLED、スマートフォンの液晶、都市のネオン。どこへ行っても「均一な光」が空間を支配し、影は悪者であるかのように追い払われてしまう。
だからこそ、この宿に足を踏み入れるたび、強烈な安堵感とともに、ある一冊の古典を思い出す。
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』。

北海道・阿寒湖のほとりに佇む「あかん鶴雅別荘 鄙の座(ひなのざ)」。ここは単なる高級温泉旅館ではない。
谷崎がかつて、西洋化していく日本の中で失われゆく美を惜しみ、必死に書き留めた「陰翳(いんえい)の美学」が、現代のモダンな建築と奇跡的な融合を果たした空間。
「陰」をデザインするということ
谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』の中で、日本の伝統的な部屋の美しさについてこう述べている。
「美は物体にあるのではなく、物体と物体との創り出す陰翳のあや、明暗にあると考える」
鄙の座のロビーに一歩足を踏み入れると、まずその「暗さ」に驚かされる。しかし、それは決して不気味な暗闇ではない。計算し尽くされた光の配置が、むしろ空間の広がりと奥行きを際立たせている。
西洋の美学が「空間を光で満たすこと」だとすれば、この宿の美学は「空間に美しい影を落とすこと」にある。
重厚な木材の質感、静かに佇む調度品、それらは、煌々と照らされた蛍光灯の下では、ただの「物質」になってしまう。でも、鄙の座の柔らかな間接照明の中に置かれることで、輪郭が曖昧になり、どこか妖艶で、深い情緒を纏いはじめる。
ここでは、光ではなく「影」こそが主役。
湯浴みの中で知る闇のなめらかさ
この「陰翳の美」を最も贅沢に体現しているのが、全室に設えられた客室露天風呂、そして最上階の大浴場での体験。
谷崎は、西洋風のピカピカしたタイルや白い浴槽を嫌い、木造の薄暗い風呂を好んだ。なぜなら、薄暗がりのなかに湛えられた湯は、視覚的な刺激を削ぎ落とし、肌に触れる質感や五感を研ぎ澄ませてくれるから。
鄙の座の客室露天風呂で、夜、照明を極限まで落として湯に浸かってみてほしい。
そこにあるのは、阿寒の夜の静寂と、湯気。そして、かすかに差し込む月明かりや星の光だけだ。
すべてが明るく照らされた現代のスパでは、僕たちは「お湯を見る」。しかし、鄙の座の陰翳のなかでは、「お湯を肌で聴く」ことになる。
暗闇が五感を拡張し、温泉が身体の境界線に染み込んでいくような、圧倒的な没入感。これこそが、古き良き和の感性がもたらす、現代における最高の贅沢なのだと思う。
「古き良き和」と「モダン」の幸福な融合
もし、鄙の座が単なる「古い日本家屋」の再現であれば、ここまで僕たちの心を捉えはしなかっただろう。
この宿の真の価値は、谷崎のいう「陰翳」をベースにしながらも、現代を生きる僕たちが心から快適だと感じる「モダン」へと昇華させている点にある。
例えば、足を伸ばしてくつろげるモダンなソファ、洗練されたバーカウンター、洗練された懐石料理のプレゼンテーション。
これらは一見、西洋的なモダンデザインに見える。しかし、それらを包み込む空間の「トーン(調度や光の絞り方)」が徹底的に和の陰翳を宿しているため、不思議なほどに調和しているのだ。
「我々は、既に失われつつある処のものを、せめて文学の領域へだけでも呼び返してみたい」
谷崎はそう言って筆を置いたが、鄙の座のデザイナーは、それを「建築とホスピタリティの領域」で見事に呼び返してみせた。
何を求めて「鄙の座」へ向かうのか
現代人が日々感じているストレスや疲労の正体は、もしかしたら「情報の多さ(明るすぎること)」なのかもしれない。
鄙の座へ来るたびに、心と身体が深くリセットされるのは、ここが「引き算の空間」だから。
影があるからこそ、光の温かみがわかる。
静寂があるからこそ、阿寒の風の音が聞こえる。
「あかん鶴雅別荘 鄙の座」が提供している本当の価値。それは、豪華な設備や高級な食材だけではない。
それは、効率性と明快さを求める現代社会が忘れてしまった「影を愛おしむ、豊かで、奥深い時間」そのものなのだ。
もしあなたが、日々の眩しさに少し疲れてしまったなら。ぜひ、この阿寒の隠れ家で、美しい闇に身を浸してみてほしい。
そこには、言葉にできないほどの、眩いばかりの「陰翳」が待っている。
【この記事の動画があります】
僕が自ら語っています。
よかったら、見てくださいね。
【鶴雅観光大学】谷崎潤一郎『陰翳礼讃』で読み解く「あかん鶴雅別荘 鄙の座」の美学
藤村 正宏
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