お酒に溺れる労働者を救うために
「旅の歴史を知れば、これからの観光ビジネスが見えてくる!」
世界で初めての観光旅行って、いつくらいに、どこで生まれたのか、考えたことあります?
僕はもう25年以上、観光業の現場に関わっているので、観光に興味があるので、自然にたくさん学んでいます。
日本最大の旅行会社からの依頼講演も、何度もやったし、さまざまな地域の観光協会の仕事もしてきました。
今も北海道のリゾートホテルグループの仕事もしています。
僕たちは普段、当たり前のように「パッケージツアー」に申し込んだり、当たり前のようにネットで予約したホテルに泊まったり、スマートフォンで現地の「おすすめ観光地」を検索しています。
この「誰もが、安く、安全に、自由に旅をできるシステム」が、いつ、誰によって、何のために作られたのか、今回はそんなお話です。

画像はイメージ
その答えは、いまから180年以上前のイギリスにあります。
そして、そのシステムを立ち上げた男は、旅行で一攫千金を狙うビジネスマンではなく、「お酒に溺れる貧しい労働者たちを救いたい」と願った、一人の熱血社会活動家でした。
彼の名前は、トーマス・クック。
現代における「ツーリズム(観光)」という巨大産業の、まぎれもない生みの親なんです。
職を転々とした「何者でもない男」の信仰心
1808年、イギリスのダービーシャー州に生まれたトーマス・クックの半生は、お世辞にもエリートとは言えないものでした。
幼くして父親を亡くした彼は、10歳から働き始めます。
八百屋の奉公人、木工職人の見習い、出版業の手伝い……。
職を転々としながら彼が心の拠り所にしていたのが、キリスト教プロテスタントの「バプテスト派」の信仰でした。
20代になったクックは、聖書やパンフレットをカバンに詰め込み、徒歩で各地を巡る「伝道師(宣教師)」になります。
貧しい村々を歩き、人々の声を聞く中で、彼はある恐ろしい社会の現実に直面することになります。
それが、「アルコール中毒」という底なしの沼でした。
産業革命下のイギリス 水より安かった「ジンの狂気」
当時のイギリスは、産業革命の真っ只中。
工場で朝から晩まで過酷な労働を強いられる労働者階級の人々にとって、日々の暮らしは苦痛そのものでした。
都市の衛生環境は最悪で、生水を飲むとコレラなどの伝染病にかかるリスクが高かった時代。
そのため、大人から子供まで、水代わりにビールや安価な「ジン(お酒)」を飲むのが日常茶飯事。
劣悪なスラムの現実を忘れたい労働者たちは、なけなしの給料をパブ(居酒屋)で使い果たし、泥酔し、家庭内暴力を振るい、さらに貧困のどん底へ落ちていく。
クックはこの状況を見て、激しい危機感を抱きます。
「お酒こそが、人間から理性を奪い、貧困から抜け出せなくしている元凶だ」
彼は生涯を通じて一滴もお酒を口にしない「絶対禁酒」を誓い、パブに集まる人々を説得するための禁酒運動(ティートータリズム)に、人生のすべてを捧げることを決意したのです。
そうか、お酒を超える「エンタメ」を用意しよう
しかし、言葉で「お酒をやめなさい」と正論をぶつけるだけでは、人の心は動きません。なぜなら、当時の労働者には、休日にパブに行くくらいしか娯楽がなかったからです。
ここで、トーマス・クックの天才的なひらめきが生まれます。
「パブの狭い空間に閉じこもるからお酒を飲むんだ。だったら、お酒を禁止する代わりに、お酒以上にワクワクする『健全な娯楽(レジャー)』をこちらが提供すればいいのではないか」
彼が目をつけたのは、当時、実用化されたばかりの最新テクノロジー、「蒸気機関車(鉄道)」でした。
「そうだ、列車を丸ごと貸し切って、みんなで遠くの街へ出かけよう。美しい大自然を眺め、爽快な風を感じ、仲間とお茶を飲みながら未来を語り合うんだ」
1841年7月5日。クックは近隣の鉄道会社と粘り強い交渉を重ね、570人もの禁酒運動の仲間を乗せた「世界初の貸切ツアー列車」を走らせます。移動距離はわずか19キロ。
これが、世界で初めて「パッケージツアー」というビジネスが産声を上げた瞬間でした。
現代の地域創生・マーケティングに活かす「クックの知恵」
トーマス・クックのこの「最初の旅」から、現代の僕たちが学ぶべき最大の教訓は、「商品は、大義名分(ストーリー)とセットになったときに最も人を動かす」ということです。
もし、クックが単に「電車の切符を代わりに買っておきました。1枚いかがですか?」と売り歩いていたら、ここまで人は集まらなかったでしょう。
彼は「移動」という手段を売ったのではありません。
「お酒を断ち、人間らしい豊かな暮らしを取り戻すための、記念すべき第一歩」という強烈な大義名分を掲げ、その体験の場として鉄道の旅をパッケージングしたのです。
現代の観光業や行政の地域おこしでも、全く同じことが言えます。
「うちの町には美味しいものがあります」「温泉があります」とスペック(機能)だけをアピールしても、溢れる観光情報の中に埋もれてしまいます。
- 「なぜ、今、他のどこでもなく、あなたの地域に行くべきなのか」
- 「そこに行くことで、観光客の人生や日常がどう豊かになるのか」
クックが「禁酒」という社会課題へのアプローチから旅を生み出したように、現代の僕たちも、顧客の「感情」や「ライフスタイルの変化」というストーリーから逆算して、地域の観光を編集し直す必要があるのです。
わずか19キロの距離から始まった、クックの禁酒ツアー。
この小さな成功が、やがてイギリス全土、そして世界中を巻き込む「大移動の歴史」の引き金となります。
藤村 正宏
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