陰翳礼讃
静けさには、意思がある。
暗がりにも、思想がある。
あかん鶴雅別荘 鄙の座という宿を思い浮かべるとき、僕の頭に自然と立ち上がってくるのは、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』だ。
今日、鄙の座で動画撮影をしました。
その時、頭の中で思い浮かんだことです。

谷崎は、明るさを拒んだ人だった。
文明が与える過剰な光が、人間の感覚を平板にしてしまうことを、彼は直感的に知っていた。
日本の美は、照らされた瞬間に完成するのではない。
半分、影に沈んだままで、ようやく立ち上がる。
光を足さないという選択
鄙の座には、「ここを見てほしい」という自己主張がほとんどない。
ロビーも、廊下も、客室も、すべてが少し抑えられている。
照明は控えめで、輪郭は曖昧だ。
でも、不思議と不便ではない。むしろ、心が落ち着く。
これは設計上の偶然ではない。
光を足さないという、明確な美学の選択だ。
谷崎が語った「闇の中でこそ生きる美」を、鄙の座は、建築と空間で語っている。
不完全さを美として抱く
現代のラグジュアリーは、「完璧」であることを競う。
均一で、清潔で、説明可能であること。
しかし鄙の座は、そこから一歩、身を引いている。
木の質感。
時間を含んだ色合い。
完全に整えすぎない余白。
それらは、「完成しきっていない」ようにも見える。
だが、その未完の気配こそが、人の想像力を呼び起こす。

谷崎が愛したのは、
くすんだ金箔であり、
煤けた壁であり、
時の重なりだった。
鄙の座もまた、時間が染み込むことを拒まない。
主役は空間ではなく、人の感覚
鄙の座で印象に残るのは、
何かを「見た」記憶より、
何かを「感じた」記憶だ。
湯の音。
夜の阿寒湖の気配。
朝の光が障子を通して滲む瞬間。
そこに説明はない。
ストーリーも語られない。
ただ、
人の感覚が、自然と立ち上がる余地がある。
これは、
体験を“提供する”宿ではなく、
体験が“生まれてしまう”宿だ。
現代版・陰翳礼讃としての鄙の座
もし谷崎潤一郎が、
現代に生きていたとしたら、
きっとこう言うのではないかと思う。
「この宿は、
光で魅せようとはしていない。
影に、すべてを委ねている」
鄙の座は、
SNS的な派手さや即時的な快楽とは、まったく逆の場所に立っている。
だからこそ、強い。
・言葉を超えて伝わる
・国籍を超えて刺さる
・年齢を重ねた人ほど深く残る
それは、
日本の美意識の根に触れているからだ。
鄙の座は、「泊まる場所」ではない。
それは、
忘れていた感覚を、
そっと思い出させるための場所。
谷崎が文章で残した
「陰翳」という思想を、
鄙の座は、沈黙と時間で語っている。
現代における、最も静かな『陰翳礼讃』。
僕は、そう再定義したい。
藤村 正宏
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