そのKPIが、心を乾かしていないか?
ぼくは時々思うんです。
KPIって、なんだか“冷たい目”をしているなって。
たとえば、SNSのフォロワー数。月末のレポートで「前月比+872」って書いてあると、「よし、伸びたな」って言われる。けれど、それが「誰が増えたか」とか「その人と何が通じ合ったか」なんてことには、誰も触れない。ただの“増えた数”として通過していく。数字は、いつも無口だ。
もちろん、経営には数字がいる。
KPIは羅針盤のようなものだ。売上、利益率、コンバージョン、リーチ数。ぜんぶ大事なことだ。
でもね、それだけを見つめていると、景色がボヤけてくる。
目的地だけを見て、旅をするようなものなんだ。
道中の風の匂いも、立ち寄った喫茶店のジャズも、まるでなかったことのようにして。
たとえば、ある会社で「3ヶ月以内にインスタのフォロワーを1万人に」と決めたとする。
それを達成するために、有名人にお金を払って投稿してもらったり、懸賞企画をバンバン打ったりする。
でも、その投稿に“その会社らしさ”があるかというと、ちょっと疑問だったりする。
投稿のひとつひとつに、温度や体温がない。味がしない、出がらしみたいなものだ。
エクスマスタジオがある商店街の、ちょっと古びた蕎麦屋さん。
『丸屋』さん。
「月に○○杯売る」とか、「客単価アップ」とか、そんな数字を追ってる感、ゼロ!
もちろん、SNSだって一切やっていない。
だけど、お昼時にはおなじみさんでいっぱいで、「いつものね」で、湯気が立つ。
僕も好きでよく通っている。鴨せいろが秀逸なくらい美味い。
お客さんが少なくなった時間帯には、70代のご主人が、新聞読んでる常連さんと世間話をしている。
そこにKPIなんて、たぶん一個もない。
でも、商いはちゃんと回ってる。なんなら、どこかしあわせそうに、回ってる。
数字を追うあまり、人がいなくなる。
そういう怖さって、あると思うんだ。
広告の反応率が悪いからって、日に日にオファーが過剰になっていく会社もある。
「今だけ半額!」「限定20名!」「ラストチャンス!」。
それ、ほんとうに“自分たちのやりたいこと”だったんだろうか。
気づけば、手段が目的になっていて、最初に大事にしていた“気持ち”が、どこかで置き去りになっていたりする。
KPIは手段だ。
気持ちや信頼、言葉の余韻や、関係性。
そういう目に見えないものの積み重ねの、その“あと”に数字がついてくるのが、たぶん健全なんだと思う。
KPIを見る前に、「この仕事、けっこう好きだな」っていう感覚を、忘れずに持っていたい。
意味なんてあとからついてくる。そういうふうに、ぼくは思っている。
雨が上がった夕方の空みたいな、ちょっと透明な気持ちで、今日もぼくは、小さな“いいこと”を拾い集めながら、仕事をしている。

藤村 正宏

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